2014年7月28日月曜日

僕の中で認知行動療法ブームが再燃と話題に

タイトルそのままなんですが、最近、僕の中に『認知行動療法』ブームが再燃しています。

かつて、僕のカウンセリングのスタイルは認知行動療法をメインとしていた頃がありました。
それは、カウンセラーとして現場に出てすぐ、大きな壁にぶち当たっていた時。

「学んだカウンセリングでは十分な効果が出せない」

というのも、僕は『来談者中心療法』というスタイルのカウンセリングを主に学んだのですが、
それが現場では通用しなかったんですね。

おっと、違いますよ。勘違いしないでください。
カール・ロジャーズ(来談者中心療法を提唱した偉大な心理療法家です)の名誉のために言っておくと、
来談者中心療法がダメなわけではないですよ。
使う人間がダメだったんです。

来談者中心療法についてはまた別の機会にしっかりテーマにしたいと思いますのでここでは解説はしませんが、
とても効果的な療法だと感じます。実際、今の僕のカウンセリングの土台はロジャーズの教えを大切にしていますし。
しかし、学べば学ぶほど奥が深く、「極めた」なんて今でも口が裂けても言えません。
つまり、当時の僕は来談者中心療法の真価がわからないほどペーペーだったわけです。

そんな頃、出会ったのが『認知行動療法』。
驚きました。こんなに効果的なアプローチがあるのかと。

このブログは心理学やカウンセリングを学術的に解説する目的ではないので、
ざっくりと、乱暴に、おおまかに、大枠で、大雑把に、アバウトに簡単に説明すると。

人は、何か出来事に対して、その出来事の意味を『考え』ます。
むしろ、考えた結果、はじめてその出来事に意味が生まれるのです。
例えば、
道を歩いているとみんなが自分をジロジロと見てきます。
これは、出来事としてはただ単に、『人が自分を見ている』ということでしかないはずです。
しかし、その出来事の意味を人は『考え』ます。

「みんながジロジロ見るのは何か珍しいものを見つけた時だ」
「自分は見られるような珍しいことをしているのでは」
「珍しいことをしているなんて恥ずかしい」

そんな風に考えるから、「ジロジロみられて恥ずかしい」
そんな結果に至るわけです。

その『考える』という働きを『認知』と考えてもらうとわかりやすいですね。
その『認知』が自分にとって生活に支障をきたすようなものであるなら、違う『認知』を持とうというのが認知行動療法。

「ジロジロ見るのは僕がかっこいいからみんな羨ましくてみているんだ」
そんな風に考えられれば、
ほらもう恥ずかしくないわけです。

専門家の方が見たら怒られそうな、ものすごーーく簡略化しましたが、
まぁそんな感じです。

一言で言えば、
考え方や、ものの捉え方を変えることで、出来事をポジティブに解釈できるようになろう。
そんな感じと思っていただければいいです。

その認知行動療法、これが現場では実に使いやすいんですね。
うつや不安障害などに効果的ということで、
実際、数ある心理療法の中で唯一、保険診療適用もされています。

さて話を戻すと、
僕は自分の学んできたカウンセリングに限界を感じ、この認知行動療法に出会ったと。
しかし、それも一時期。
ここ数年では、また別の療法をメインにしており、あまり行っていなかったのですが、
先日あるケースの中で、求められて認知行動療法を行いました。
その時に、ふと思ったのです。

「今の自分のスタイルに改めて認知行動療法を平行して取り入れたら、すごく効果的なアプローチになるのでは?」

おそらく、以前にハマった時より自分のカウンセラーとしての力は上がっていると思います。
ならば今なら、あの頃より効果的に使えるのではないかと。

経験を積めば積むほど、学べば学ぶほど進化していく自分のカウンセリング。
また新しい扉が開きそうでワクワクしています。






2014年7月24日木曜日

食の安全

ここ数日のニュースで、中国企業が使用期限切れの鶏肉を供給していたというニュースが大きく報道されていますね。
しかも日本国内にも流通していたらしく、大手外食産業は大きなイメージダウンを強いられています。

日本人は『食』にはうるさいと言われており、

「日本人は諸外国から何をされても怒らないけど、『食』に関することだけは怒る」

そんなジョークにもされるほどで、
そんな中国企業からの鶏肉を使用していた日本の大手外食チェーンやコンビニは早くも名前が挙げられており、これからその対応に追われるのでしょうね。

さてこの問題、そう単純なものではないと思います。
本当に問題なののは、食べ物に対する安心感が失われたということなのではないでしょうか。

今回の中国企業と関連のあった企業だけでなく、これから買い物や外食のたびに我々はこう思うのではないでしょうか。

「この店の肉は大丈夫なのか?」
「ここも大手チェーンだし、どうせ危ない食品を使っているのでは」
「なんだか味が変だぞ。これはきっと使用期限が切れているに違いない」

そんな風にいちいち心配しながら食べるというのは、大きなストレスとなるでしょう。

人は、自分でも制御できない考え方のクセというものがあります。
『自己関連付け』という認知の歪みの一つのパターンは

「悪いことが起きたのは自分のせい」

という考えに囚われてしまう傾向にあります。
その結果生活に不具合を感じてし生きづらさを訴える方はカウンセリングにも多くいらっしゃいます。

今回の場合は少し違いますが、やはり一つの事柄やよく考えれば繋がらない事柄同士を

「あれが○○なのだがら、これも○○に違いない」

そんな風に関連付けてしまうきっかけと十分成り得ることだと思います。

『食』を提供する立場であることは、単純に商品を売っているだけでなく、
『食べる』という生きていく上で必要不可欠な営みに、大きな影響を及ぼす存在であることをもっと強く受け止めるべきであると感じます。
今回のことを機に、我々の食の安全がより安心したものとなるよう願います。


2014年7月21日月曜日

黄の空、人の縁


今日の名古屋の夕方の空模様。
写真じゃイマイチ伝わらないかもですが、空が黄色くて異常気象みたいでなんだか気持ち悪かったです。
ここ数日は毎日といっていいほど一時的な雷雨があって、どうも気候が安定しないようですね。

天候と気分というのは密接な関係があるもので。
もう少し具体的にいうと日照量が少ない国、寒い国など雲が厚くて太陽を浴びる機会が少ない国はうつ病が多いというデータもあります。
逆に、うつの治療法には規則正しい時間に太陽光を浴びるというものあって、やはり人間も動物なんですね、自然の力に大きな恩恵を受けているようです。

さて、そんな今日はかつての教え子さんにご飯に誘っていただいてきました。
美味しいお酒に料理に、笑いの絶えない会話。
曇り模様のせいか冴えない気分もどこ吹く風で、時間を忘れて楽しみました。

人と人の縁とは良いもので、こうして久しぶりに会っても互いの信頼関係があれば、会っていなかった時間も関係なく気を許しあえます。
仕事上こういった機会が多いのも恵まれていますね。
互いに心理を学んだもの同士ですので、ある意味気持ちのよいコミュニケーションの専門家なわけですし。

こういった出会いに自分は生かされているんだな、とつくづく思います。
うん、大切にしていこう。

2014年7月19日土曜日

きどくむし は きのどく

僕の学生の頃はポケベルかPHSだったんですけど、最近はみんな携帯。それもスマホですね。
何でもスマートフォン普及率は5割を超えるとか。
確かに電車乗っているとみんなスマホの画面見てますね。

かくいう僕もスマホユーザーなわけですが。まぁ便利ですよね。
電話ができるちっちゃいパソコン感覚で。
ほとんどネット見るだけでそれ以外の機能は使ってないんですけどね。

そのスマホ、色々なアプリがあるようです。
課金アプリなんかも問題になっていますが、それはまた別の機会に。
今日話題にしたいのは LINE というアプリです。

インターネット通話やテキストチャットなどの機能を持つアプリの中では一番メジャーなんではないでしょうか。
特徴としては、自分がメッセージを送った相手がそのメッセージを読んだかどうかがわかるという、『既読機能』でしょうか。
これが問題になっているようで。

既読になったのに数分返事が来なかったら友達じゃない!
そんなルールまであるそうですよ。
あー怖い。

携帯メール全盛期の時代にもこういうのありましたよね。

「メール送ったのに返事しないなんてひどい!」

いつも不思議に思ってたんだけれど、すぐ返事欲しいなら電話すればいいんじゃないかな、と。
メールの利便性って、相手の都合を考慮して、都合のいい時に見てもらえるメッセージじゃないのかな?

ネットの普及で、こういったコミュニケーションの種類が増えて、直接的なものだけでなく、こうした媒体を介してのコニュニケーションが増えた事自体は便利になっていいことだと思います。
しかし、その反面ではこうした問題も生まれやすくなるのですが。
これってネットとかLINEとかの問題なのかな?
単純に

相手の立場になってものを考える

ただそれだけのことで防げることじゃないのかな。
自分の都合もあるけれど、同じように相手にも生活があって都合もある。自分の思い通りになんていかない。
それがわかっているだけで、自分発信の、ある意味自分の都合で送ったメッセージを中心に考えてしまうことなんてなくなると思うんですけどね。

問題は携帯とかネットとかそういうツールじゃなくて、使う側のモラルにあるんじゃないかと思います。
そんなモラルがまだ備わっていない未成年がツールを持つ事、そしてそんなモラルを教えられる大人がいないことが問題の本質なんじゃないのかな、なんて思います。


あと、既読無視のことを『ks』というらしい。
既読スルーの略らしいんだけど、スルーの綴りは『though』だと思うんだ。



2014年7月18日金曜日

脱法ハーブの報道に対して

ここ最近急速に話題に取り上げられるようになった脱法ハーブ。

僕が学生の頃からあったので20年近く前から気軽に買えたと思うのだけれど、なぜか最近急に脱法ハーブ吸引が原因の事件が増えていますね。
体内摂取により、興奮、催眠、幻覚・幻聴などの作用があり、位置づけとしては『法律に触れない気軽なドラッグ』という印象だった。
法に反しないとはいえ、実は体内摂取は薬事法的に違反なので、名目上は『観賞用』として販売されていることが多く、いわゆるスキマをすり抜けるものなわけですね。

勿論肯定するつもりはないし、依存性や毒性(原料も不明なものが多く、ある意味麻薬や大麻よりも怖い)も認められるということなら、
厳しく取りしまうという流れが当然ではあると思う。

今日はそこではなく、別の所に疑問を感じたのでそこについて少し。

まずは極論として、あくまで個人的な意見なのだが、自己責任でやるのであればどうぞご勝手にと言いたい。
蔓延して、分別や責任能力のない未成年にまで広がるのは絶対避けなければならないことだが、
いい大人が自宅で幻覚や幻聴楽しんでアッパーになりたいというなら、それはもう自己責任でやったっていいのではないかとちょっぴり思う。
お酒だって飲んだらハイになって依存性あるわけだし。
なら酒類も規制しなやいけなくなるし。

だが、ここ最近の事件は、脱法ハーブを吸引して車を運転して事故を起こすという、もう根本的に脱法ハーブが原因というよりも、
その人のモラルや常識が疑われる。
どうして脱法ハーブ吸って車の運転する?
家で一人で楽しんでりゃいいじゃないかと思う。

実際、脱法ハーブが出まわって随分経つが、そんな事故はあまり耳にすることはなかった。
そこで感じたこととして、報道による知名度の上昇という要素があるのではにだろうか。

今まで存在も知らなかった脱法ハーブ、しかしきっかけとなった事件をワイドショーでやたらと取り上げているのをみて興味をもった、
そんな人も多いのではないだろうか。

重ねて言うが、僕は別に脱法ハーブを容認しているわけではない。だが、きちんとルールや節度、周囲への迷惑を考えてひっそり楽しんでいるオールドファンに対しては、別段怒りを感じることはない。確実に体や心に良い影響は与えないだろうが、それも含めて自己責任だ。
それが、話題になったことで一般に存在が浸透してしまったという事実はあるのではないかと思う。

もしマスコミが、話題に挙げることで世論の力を借りて脱法ハーブ全撤廃を意図しているのならそれも戦略の一つだろうし、是非は別として納得する。
しかし、話題や目新しさ先行で無責任に存在を広めているのなら、それはもはや広告塔になりかねない危険なことなのではないかと感じる。

今回の一連の流れで、かつてのある事件を思い出す。
10年ほど前、マジックマッシュルームというキノコがあり、それもやはり法に触れないながらも幻覚作用や気分の高揚作用などがあり若者の間で流行していた頃がありました。
そんな中、現在も活躍している男性俳優が、マジックマッシュルームを食した結果、強い幻覚作用などに襲われてパニックを起こして外に出て助けを求めるという事件がありました。
その事件で話題になったマジックマッシュルームは、事件の直後と言っていいほど素早く法規制を受けました。
今回の流れととても似ているんですよね。

最後に、現在違法対象も含む、精神刺激系の薬物に対しては、こんな思い出があります。
学生時代からとても好きだった男性歌手が、大麻取締法で逮捕された時に感じたこと。
その歌手は、恋愛ソングをとても心に来る歌詞に乗せて歌う人でした。
「あの胸を打つ歌詞は薬物で高揚したものだったのか? 薬物に頼らなくても『恋』でいくらでもハイな気分になれるって信じてたのに」
そんな、裏切られたような悲しい気持ちになったことを今でも強く覚えています。


2014年7月17日木曜日

グリーフワーク

昨日、マンションのドア付近にヤモリが死んでいました。
夏が近くなるとうちのマンションには壁にヤモリを時々見かけていたので、
「あ、いつもこの辺りにいたやつかな」
そう思って庭の土に埋葬しました。

ヤモリって爬虫類なので苦手な人多いかもしれませんが、よく見ると愛嬌があるんですよ。
目なんて正露丸みたいだし。
日本ではヤモリが住む家には悪いことがおきないと言われたり、
東南アジアでは、赤ちゃんが生まれるときにヤモリが鳴いていると、その子は幸せになるという話もあるそうです。
そしてなんといっても虫を食べてくれる。
僕の最大の敵である、あの黒くてカサカサ走る長い触覚のGで始まる名前のアイツも食べてくれるそうです。

そんな愛するヤモリですから、コンクリの上でゴミのように処理されるのはしのびないということで、
せめて土に還ればと思い埋葬しました。

さて、人の死を悼む、死者を弔うというのは動物では人間だけの特殊な行動と言われています。
(個人的には、人間だけでなく仲間の死や主人の死を悲しむ動物は他にもいるとは思いますが)

一節では、人は知能を持つと同時に『死の概念』を持つに至ったとか。
人は、親しい人や愛する人と死別した時、大きな試練を強いられます。
大切な人を亡くした喪失感はとても大きなものです。

そんな、死を乗り越えるための心理学的な対処法を『グリーフワーク』といいます。
日本語では『喪の作業(仕事)』などとも言われ、個人的なカウンセリングだけでなく遺族同士の自助グループなどでも行われています。

例えば、『葬式(葬儀)』。
これも、グリーフワークの一種と考えられます。
亡くなった人の冥福を祈るために行われる祭儀として認知されていますが、
残された人たちが、人の死を受け止めるために行われる儀式としての一面もあると考えられます。

我々は生きていく上で、身近な人の死を経験しないですむことは難しいでしょう。
誰にでも訪れる可能性のある、死という喪失。

カウンセリングの現場でも、身近な人の死というテーマは多く扱ってきました。
それに対して有効なのが、感情の解放。
悲しみ、嘆き、中には怒りなど、身近な人の死には様々な感情が沸き起こります。
感情を解放するというのは思っている以上に難しく、それが我々の心の整理を邪魔することは以外に多いのです。

死を受け入れるということは、人生の中で大きなテーマとなっていくと感じます。



2014年7月15日火曜日

好きなもの①

いきなりだが、僕は漫画が好きだ。
別に隠しているつもりはないし、ある程度親しい人なら
「何を今更」
そう言われるであろう程度のことだ。

小学校の頃にはじめて親に漫画を買ってもらって以来、
数年前まで週刊少年ジャンプを愛読していたし、
実家には数千冊の漫画がある。
今の家にも数百冊はあるだろう。
ジャンルも節操なしだ。
少年漫画、少女漫画、青年漫画(いやらしいいやつじゃなくて、対象年齢が高めの漫画のことですよ)
など、ジャンルに関係なく面白いと思ったら何でも読む。
勿論、小説や学術書も読むが、それらと同じ選択肢として漫画も分ける事なく読む。
今の自分の知識や思想、価値観など読んできた漫画に大きく影響を受けているだろう。

しかし、自己紹介や趣味を人に語る時に、
「漫画が好きです」
とは言い辛い。

漫画という文化は、大きな文化・産業として確立しつつも、未だどこか子供向けの幼稚な趣味として認識されることも少なくはない。
そして、社会の中で何かしらが糾弾される時にも矢面に立たされることも多い。
有害図書というレッテルを貼られ、内容よりも表面的な描写で判断されることもしばしばだ。
また、知識のソースが漫画だというと、馬鹿にされることもある。

なにかと価値を軽んじられる漫画だが、
例えば手塚治虫は医師免許を持つという背景を使って『ブラックジャック』を執筆している。
医療の知識を持つ人間が描くこの作品に、僕は沢山のことを教えてもらった。
たとえ本人の知識でなくとも、作者は取材や情報収集を経て物語を作っている。
知識を得る手段としては、他の媒体に遜色はないはずなのに、おかしな話だ。

そして、表現方法としての漫画は、
『文章を読むことを放棄した娯楽』
そんなふうに思われがちだが、実はそうではなく、
『漫画という独特の表現方法だからこそこそ成し得る作品』
であると思う。
文章によって描写を読者に委ねるのが小説なら、
文章と絵を融合させることにより、作者の表現を100%に近い形で読者に伝える作品が漫画であると思う。

今まで色々な理由で、有害と認定された漫画を読んできたが、
全てではなくともその多くからは、しっかりとしたテーマが根底にあり、
そのテーマは決して有害なものではなかったと個人的に感じている。

だからといって漫画を高尚な文化として認めろとは思わない。
娯楽でいいのだ。
娯楽はどこまで行っても娯楽であり、それ以上の存在ではないのだろう。
だが、そんな娯楽を通して多くのものを学び、人生の糧とすることは可能だと思う。

何か社会的な主張があるわけじゃない。
ただ、僕は漫画が好きで、それは僕の人生を少なからず豊かなものとしてくれる材料であることを伝えたかっただけです。

何が言いたいかというと、
おすすめの漫画あったら教えて下さい。



2014年7月12日土曜日

励ましているつもりでも……?

元気のない人を見ると励ましたくなってしまう。
そんな人多いんじゃないでしょうか。
それはとても尊い、立派な優しさだと思います。
元気のない、落ち込んでいる人を見ると、つい元気になって欲しくて励ましてしまいます。

しかしそれは要注意。
あなたのそんな優しさが時に相手を追い込んでしまうこともあるのです。

落ち込んでいる人を励ます時、どんな言葉をかけますか。

①「落ち込んでいても何も良くはならないよ! さぁ、笑って! 」

②「君が落ち込んでいると僕まで悲しくなってくるよ……。僕のためにも元気になって欲しい」

③「僕が君の悩みを解決してあげるよ。さぁ、僕に任せてなんでも頼って! 」

どれも一見魅力的な言葉です。
優しさや頼もしさが伝わってくる気がしますね。
……そう。『気がする』だけかもしれません。

①は落ち込んでいる気分を強引に前向きにしようとしています。
結果、相手は笑うかもしれませんが、落ち込んだ悲しい気持ちが消えるわけではありません。
笑えと言われたから笑っているに過ぎず、逆に言うと悲しい、落ち込んだ気持ちを否定されています。
その悲しい気持ちはどこに行ってしまうのでしょうね。
どこにも行きません、その人の心の奥に追いやられて、ずっと残り続けてしまいます。

②は相手の為を想っての言葉のようですが、実は自分が悲しい気持ちになりたくないだけです。
目の前に悲しんでいる人がいるのに何もできない自分が苦しいから、自分のために無理に空元気を出して、と言っているようなものです。
これもやはり相手の悲しい気持ちを否定して、心の深い部分に押し込めさせているだけです。

③はどうでしょう。 頼りがいがあって、もうこの人に全部任せてしまおう。そんな気持ちにさせてくれます。
でもそれって、結局は自分が相手の気持を全部背負ってしまおうとしているだけなんですよね。
しかも、人は他人の気持ちなんて背負えません。そんな責任は負えません。
だって、自分の気持はどうあがいても自分でケリをつけるしかないのですから。
もっと言えば、この言葉は裏を返すと
「あなたは自分で解決する能力がないから、僕が助けてあげるよ」
相手の力を信じずに見くびっているから出る言葉です。

難しいですね、どれも正解ではないんですよ。
わかりやすくするためにあえて極端にきつい言葉を使いましたが、人を励ますというのはそれほど難しいのです。
むしろ、『励ます』なんていう発想自体おこがましいかもしれませんね。

ではカウンセリングではどうするか。
落ち込んで悲しんでいるその人の気持ちを、ただ受け止めます。
だって、どう誤魔化しても悲しい気持ちがあるのなら、いっそきちんと悲しんで、泣いて、気持ちを感じきるしかないからです。
勿論それで終わりじゃありませんよ。
(おかしな言い回しですが)悲しみを満足行くまで感じきった時、人は次に進めるのです。
そしてその時、人は自分の力で自分を励まし、救うことができます。

我々カウンセラーは、そんな人の力を信じて、自分で良くなっていくお手伝いをします。
自分を助けられるのは自分だけ。
単純なことですがとても難しく、一人でそれに気づくことは困難です。
そのお手伝いのために、数えきれない専門技術や知識をフル活用してその人を援助します。

カウンセラーとしての経験を積めば積むほど、人の強さを目の当たりにして、ますます人を信じる気持ちが強くなっていくのがわかります。



2014年7月11日金曜日

『心』と『体』

今日はまた暑かったですね!

全国的に初の猛暑日を記録した地域も多いようで。
また一方埼玉なんかではゲリラ豪雨的なものもあったとか。

こういう急激な気温の差はホントやめて欲しいんですよ。
弱いんですよね季節の変わり目って。

寒い→暑いとか暑い→寒いとか急に対応しろって言われても私の体はそんなに器用じゃないようで、
そういえば実家住まいの頃は季節の変わり目ごとに年2回は大風邪でぶっ倒れてたように思います。

でも、ひとり暮らしをはじめてからはあまり風邪で寝込むこともなくなりましたね。
だって、一人暮らしで寝込むと生命の危機を身近に感じてしまいますし。
それでも一人暮らししてからも寝込むことは何度か(主に食あたり関係で)ありましたが、あれはキツイ!

体が辛くて起き上がる気力もないし、かと言って寝込んでても食事は出てこないし。
ふらふらしながらコンビニ行ってウィダーインゼリーを買い込んで、
何とか生きるために必要な栄養を取りつつひたすら回復を待つという。
野生動物のような対処法です。
病院に行けるくらい元気だったら病院に行かなくてもいいというね、これはもう大いなるパラドックスですよ。

とまぁ、そんな私の不健康自慢はいいんです。
何が言いたいかというと、寝込めない状態だと寝込まない。
ということなんですね。

『病は気から』なんて言葉がありますが、勿論気持ちの持ちようではどうにもならない病だってたくさんあります。
しかし、「自分は病気だ……」と思っているとほんとうに体がしんどくなってきたり、実際に発熱したりと、
心と体は心身相関と言われるように密接です。
実際、体調に大きな影響を及ぼす自律神経は、ストレスや不安によって不調をきたします。
医学的見地からも気持ちと体の不調の因果関係は明らかになってきているようです。
もっと単純に考えても、「病気になってはならない」「病気になったら困る」と心がけるだけでも随分違うでしょうしね。

あと、病気と心の関係では

『疾病利得』

という言葉があります。
簡単に言うと、病気になることで得をする部分があると、病気を治すことに対して抵抗を起こしてしまうということでしょうかね。
例えば、子供の頃風を引いたら、親がいつもより優しくしてくれた、勉強しろって言われない、美味しいデザート買ってきてくれる。
そんな病気をすることで得られるものを求めることです。
多くの場合は本人は無自覚なので、病気に苦しんでいるのですが、自分でも気づかない深層心理ではラッキー♪と感じてたり。

カウンセリングには、心の不調を訴えてくる人が主です。しかし、体の不調を訴えてくる方も少なくはありません。

「いろいろな病院に行ったのに、体調不良の原因がわからない」

「この体調不良はきっとストレスから来ているんだ」

実際、カウンセリングを通して体の症状が軽減した、消えたというケースも沢山見てきました。
人間というのは、『体』だけでも『心』だけでもなく、その両方によって成り立っています。
体が弱れば心も弱るし、その逆も勿論。

両面からのアプローチが大事なんですよね。


台風

TVをつけるとどこも台風の報道ですね。
沖縄をはじめ各地では大きな被害も出ているところもあるようで、ブラウン管越しではありますが改めて自然の脅威を感じます。

「7月では最強クラス」らしく、確かに今まで聞いたこともないような高い数字で台風の危険度を伝えてくれています。
まぁ、台風と風邪は毎年「今年のは強いらしいよー」とは言われていますが……。

名古屋は今日明日が荒れるのでは? と心配していましたが、今のところ私の周辺では大きな影響は耳に入ってきていないようです。関西の実家も無事らしく一安心。
勿論、遠いところでの被害は関係ないというわけではないですが。

こういった自然災害というのは、時として人やその生活に大きな傷跡を残します。
壊れた家や体の傷は癒えたとしても、それによって傷ついた心のケアも必要です。


さて、話は変わりますが先ほどニュースを見ていると。
関東地方は明日も警戒が必要なようで、それに関しての街頭インタビューであるOL風の女性がこんな事を言っていました。

「電車が止まるといけないので明日は早めに家を出ようかと思います」

会社に行くことは決定なんだ……。
いえね、立派だと思いますよ。
でもね、会社に行けるかどうか、っていう心配は念頭にないのか、と思うと日本人って勤勉だなぁとつくづく思いました。

こんな時、海外の人はどんな思考をするんでしょうね。
各国の反応とか聞いてみたいな、なんて思いました。











2014年7月10日木曜日

ご挨拶

久しぶりです、こういう完全に100%個人的なブログ。
なのでまずは自己紹介的なことを書こうかと。

タイトルを見たら分かると思いますが、職業はカウンセラーをしています。
カウンセラーといっても、昨今は『○○カウンセラー』という名称が増えてきています。

そんな私は心理カウンセラー。
心理を専門としたカウンセリングです。
平たく言えば、悩み相談や心の不調の専門家です。

そこで、今日は私のカウンセラーとしての来歴を自己紹介代わりにこのブログのスタートとしようかと。

まず、学生時代に遡ると。私は哲学を専攻している学生でした。
どうして哲学かというと、もともと心理学は哲学の一部だと言えます。
本来哲学とは、万物の理というか、物事の本質をもっと解き明かそう!というのが大きな目的です。(からり乱暴に言いうとね)

そんな哲学の研究対象として、『人の心』などという魔化不思議極まりないものが挙がらないわけがないわけで。
心理学の開祖と呼ばれることもある哲学者アリストテレスさん。彼は「心は脳髄にあり」と言っています。
なので、人の心を哲学したものが心理学と言ってしまってもいいのではないでしょうか。

そんな哲学を学んだ結果、私はこう思いました。

「実験や研究ばかりじゃなくてもっと実践で役立てたい!」

そこから臨床心理学を学び、紆余曲折を経て臨床心理カウンセラーという資格を取りました。

資格を取得後すぐに同じ志を持った数人とカウンセリングルームを開業。
今考えると実績もないし勉強も足りないのによく思い切ったものです……。

そして経験を積んで独立。
個人でカウンセリングルームを開業して、6年程東京の恵比寿や赤羽で一般の方を対象にカウンセラーとして活動していました。
個人セッションから講演会など含むと、千人以上の方たちと関わらせてもらいました。
そして5年前から名古屋でカウンセラー養成学校で講師として沢山の方にカウンセリングの技術や経験をお伝えさせてもらっています。

改めて振り返ってみると、カウンセラー人生も長いことやってきたなぁ、と感慨深いものがあります。

色々な方と出会いました。
そんな出会の一つ一つが私の成長となり、今の自分となっているとしみじみ感じます。

そしてどうやらこの職業は私の一生の生業となりそうです。